御聖体と聖母の使徒トップページへ    聖人の歩んだ道のページへ     不思議のメダイのページへ    聖ヨゼフのロザリオのページへ


使徒聖マタイ福音史家    St. Matthaeus Ap. et Evang.    祝日 9月 21日


 イエズス・キリストの十二弟子中口ばかりでなく筆を以ても聖教を伝え広め、為に福音史家と呼ばれている人が二人ある。それは主の愛弟子聖ヨハネと、始めて福音書の著作に手を染めた聖マタイとである。
 このマタイは元の名をレヴィと称し、ユダヤ国の北部ガレリア州にアルフェオという者の子と生まれ、ユダヤ人であるのに常時その国を支配していたローマ帝国の収税吏となり、聖主が第二の故郷の如く考えておられたカファルナウムの収税所に勤めていた。
 その頃収税吏といえば、定めの税金を取り立てる外に、いろいろの不正を行い人民の膏血を搾って私腹を肥やす者が多く、従って人々に蛇蝎の如く嫌われ、祖国ユダヤを裏切った者と卑しめられ、やもすれば「罪人と税吏」と併称されたものである。レヴィも他の税吏と同様不正を働いたかどうかはつまびらかではないが、兎に角相当な財産を積み、主の御弟子中最も学問と社交に長けた人物であった。しかしここに見過ごしてはならぬのは、彼が他の福音史家と異なり人にさげすまれる己の職業を堂々とその福音書中に明記していることであって、これは彼が人並みすぐれた謙遜の持ち主であることを証拠立てるものに他ならない。
 レヴィがいつ頃から主キリストを知り奉るに至ったかは不明であるけれど、主は始終カファルナウムに往来されたので、恐らくはその公生活を始め給うてから間もない事と察せられる。ある日彼は収税所にいるとイエズスから「我に従え!」という有難いお言葉を頂いた。レヴィはその前から折りさえあったら主の御弟子になろうと思っていたのか知れぬが、兎に角そのお召しを受けると、早速利益の多い税吏の職を捨てて御弟子の一員に加わり、それと同時に感謝の心からマタイと改名した。これは「主の賜物を受けた者」という意味である。
 それから彼は新生涯に入る記念として、イエズスやその御弟子方は勿論、もとの同僚知人を自宅に招いて盛大な樋籠の宴を張った。ファリザイ人等が主の御弟子達に「諸君の先生はどうして税吏や罪人などという賤しい者共と平気で食事を共にされるのだろう」と非難の語気を漏らして、主に「賢者を要するのは健康な人ではなくて病人であろう。私が来たのも義人を召ぶ為ではなくて罪人を召ぶ為に他ならぬ」とたしなめられたのはこの時のことである。
 爾来マタイはあらゆる困苦艱難を主と共に分かち、イエズスの御死去後は他の十使徒と主の御復活御昇天の証人となり、聖霊を受けてからは9年間ユダヤに道を説き、42年転じて他国に布教する前聖福音書を著し、以て使徒達の説教により入信した人々の信仰を固めようとした。これこそ新約聖書最初の著作なるマタイ聖福音書で、そのアラマイ語で記されたのは当時のユダヤ一般民衆の判読理解の便を計ってのことである。
 後彼は布教の為エチオピア地方に赴きあまねく主の聖教を宣べ伝えた。伝説によれば彼はそこで数多の人々を改宗させ、殊にオイジボ王の一王子の病篤きを癒した為国王はもとより王妃、王子、王女まで聖教に帰依し、イフィジェニアとよぶ王女の如きは、童貞となって身を天主に献げたということである。
 しかるにヒルタコという者が王となるに及び、イフィジェニアの美貌に心を寄せ之を妃に娶ろうとしたのに、彼女はキッパリと拒絶したから、王は大いに面目を失い、これも皆マタイの指金と彼に憎悪をかけ、さんざんに責めさいなんだ挙げ句、之を大地に釘づけて一命を奪った。時に西暦90年頃で、彼の遺骸は後年南イタリアに移され、今なおそこに保存安置せられている。

教訓

 聖マタイは主の召しだしに素直に従った為、使徒となり聖人となる栄誉をになうに至った。天主の我等に示し給う途は各人様であるが、いずれにせよその聖旨に従うのがその人にとって最も幸福なのである。されば我等は心して主の召命のどこにあるかを祈り求め、一旦之を悟った上は忠実にそれに応ずる事が大切である。